各世界に於いて名人技、達人技というものが存在していることは日本人なら承知していることです。
陶芸、美術品、建築、などの物をつくる人の中にも名人、達人が沢山いらっしゃいますが、
それらの分野ではなく、武術という世界に限って名人、達人を語っていきたいと思います。
日本人なら、飄々とした老人が、偉丈夫な悪人に襲われ切られそうになるが、一瞬のうちに暴漢は切られ倒れているといった光景を、
時代劇の映画や本の中に見ている人が少なくありません。
「そんなことが有得るの」と疑ってはみていても、そういうことが存在することは全面否定派はしていません。
日本人の多くは名人、達人の技に憧れて育って生きています。否定していてもどこかで期待しています。
武術お宅にはまっている人は、この憧れの部分が強い人かもしれません。
名人とは? 正直、名人といえる人に会ったことはありません。しかしどこか達人と違う面があることは分かっています。
昔の剣術の世界から探ってみましょう。
刀を持って戦場を駆け回っていた1500年代半ばごろまで、まだ剣術として成り立っておりませんでした。
単なる人を殺す武器を操ることでしかありませんでした。
1500年半ばを遡る何年か前に剣術というものが考え出されました。戦場でしゃにむに刀を振り回すものでなく、
刀の振り方や全体の動きに独特のものがうまれてきたのです。
室町後期の剣客で陰流の祖、愛洲惟考という人が出てきました。久忠、日向守、また移香斎ともいわれました。
この人あたりが剣術を確立した人としても間違いはないでしょう。
その弟子に、上泉伊勢守信綱という名人が存在します。その弟子たちに名だたる人たちが存在しますが、
後に有名になる、柳生新陰流を起こしたという柳生石舟斎という人がいます。
このあたりの時代から剣術がはっきりと確立されてきました。まだ、鞍馬流、一刀流、富田流、中条流、鹿島神道流などもありますが、
筆者はここで時代の新旧にこだわらず、エピソードを述べるために前に進めていきます。詳しいことは他の研究家にお任せします。
上泉伊勢守信綱は、柳生の近在では誰も勝てぬ存在だった柳生石舟斎をいとも簡単にはあしらいました。
力や早さだけではない術儀の中で石舟斎は上泉伊勢守信綱の弟子の疋田文五郎に負けます。
(後に疋田文五郎は疋田流陰流を起こしていきます。)
それより石舟斎は上泉伊勢守に弟子入りし開眼して、後に柳生新陰流を起こしていきます。
達人柳生石舟斎が名人柳生石舟斎に変わっていきます。
達人とはその道に秀で最高の域に達した者のことをいいます。名人とはその先をいき、
達人がどうしても勝てない術理の持ち主と解釈すると、名人と達人を分けることができるかと思います。
名人、達人の技の中には、現代の運動科学では計れない動きがります。
言い換えれば筋肉の運動科学や力学では解決できないということです。
しかしその本質を解くと、そんな簡単なことかとなるのですが、実際に行うことは至難の技になります。
科学という概念がない時代に、名人の技を検証していくという考え方は存在しなかったでしょうから、
摩訶不思議な神がかったものとして崇められたのではないかと思います。