現代教育不要論

 

「何故、丁寧に教えたのにできない」

「何故、何度も教えたことを覚えてくれない」

弟子や教室の生徒に、健康のためのヱキササイズ、武術や人を治すための施術法を長年指導してきた。とにかく覚えて貰おうと色々と工夫を加えて教えてきたが結果は上記の如し。

これは指導者としては失格。教え方に問題があるのかと、一時悩んだ事もあった。また、受ける側の能力に問題があるのか?と考えたが左程難しい事を教えている訳ではないので、能力の問題ではなさそうだが、兎に角覚えてくれないのである。

何故覚えられないのかを知るのが私の長年の課題だった。あるとき、観方を変えて見てみると、受講者にある特徴があるのが解った。彼らは、教えて貰う事に慣れ、自分から率先して学ぶ事をしない人たちだった。そして、その時が楽しいのが一番、それが証拠に、誰にもできないような摩訶不思議な技を教えると喜々としてやっている。しかし、その時はできるのだが、時が経つと忘れてしまう。覚え込むコツを知らないようだ。覚えなくても人生に変化はないので、しっかりと覚えることが必要ないからなのか?

教える身から言わして貰えば、覚えてくれないことを毎週何時間か費やして30年教え続けてくると、何という人生の無駄使いをしてしまったのだろうと、些か参ってしまう。

どうやらこれは一方通行の現代の教育に問題があるようだ。

これまでの私の人生は、世間から縛られることを嫌い、自由な発想を基に色々なことを成してきた。その発想や行動は、現代教育の影響をほとんど受けずにきたお陰かと思っている。

私は、殆ど、学校教育を受けていないに等しい。建築、武術、治療家として、これまでにそれ相応の実績をつくってきたが、すべては独自に創ってきたもので、誰かに教えて貰ってつくったものはこれまでに一つもない。どのようにしてそれを作って来たかを語る前に、私の過去から語っていかなければならないようだ。

 

少年時代に父を亡くし生活は貧しかった。まぁその時代日本全体が貧しかったのだから取り分けて酷かった訳ではない。そのような環境からは、高等教育を受けるという選択肢は私には存在しなかった。

中学を卒業し、建築の職業に就いた。給料は雀の涙。そこから定時制の高校に、しかし、その学校で受ける授業は、時間の浪費でしかなかった。この程度の学問を身に付けるためなら独学で充分と判断し中退した。仕事が終わると真っすぐ家に帰り、学校に通う時間と授業を受けていた時間で、母親との生活費を稼ぐための内職に精をだした。(この内職は、中学時代の生活費を稼ぎだしたもので、担任の先生の給料を上回るものを稼ぎだしていた)就眠する前の時間で独学した。

その時代の建築での風潮として「見て覚えろ」で、事細かに教えてもらうことはほとんど無かった。技術の習得は、先輩や師匠の仕事を見て覚えることだった。

色々なことが身に付けていくと、観察力がアップし、観方が変わってくる。

建築の仕事は、何も無い0から始まる。物が出来ていく順序と法則を理解し、作る技術があれば、建物を造ることができる。(これを言葉で数時間語っても造れるまでには至らない)これが、昔から言われてきた「見て覚えろ」の本質だったのだろう。

簡単に教えられると、その場できるようにはなるが、記憶に残らず直ぐに忘れてしまう。苦労して覚えるからいつまでも忘れず自分の物と成る。そして観察眼が育ってくる。

自分で建物を建てられるようになり、そこそこの技術が習得できた時、既存の技術だけではもの足りなくなり、新しい技術を手に入れたくなった。

新しい技術を身に付けていくには、自分で学び取るしかなかった。誰も教えてはくれない。いや知っている人が居ないのだ。

それが知りたいと、工学系の学校の建築科に行ったが、そこでは「これを図面化してくれないか」と、その学校の先生に頼まれアルバイトをする始末。先生は、時代と共に進歩していく建築の技術を学び取らず安穏としていた。私は常に実践の中にいて、進歩を嗅ぎ取っていた。私と先生にレベルの差が生まれていて当然だろう。アルバイトはその結果である。しかし、先生に教えても始らない。

私は、学歴欲しさに学校に行った訳ではなかったので、自分よりレベルの低い学校に通っても仕方がないと退学した。

この頃は、学歴尊重主義が出てきて、有名校に行くことが良いとされる風潮にあった。ママゴンの出現した時代であった。

 

私の学び方は、自分で資料を探し、その資料から必要なものを学び取るというやり方。これがいつの間にか身に付いてしまった。

1級建築士を取得し、多くの建築事務所や有名な建築家の技術コンサルタントをしてきた。そして、新しい技術(木造ラーメン構造、二方向中空スラブ構造、特殊基礎構造、特殊2×4構造)を雑誌などで発表する様になっていった。

学歴の無い者(学歴は無いが学識は持っているつもりでいる)が何故、最高学歴を持った人たちに教えるようになったのか?

それは、人から教えられた事をやってきたのではなく、自ら学び取り、新しい創造をしてきた者に、彼らは指導を受けたいと思ったのだろう。

教育を受けることが、当たり前だと思っている人たちは、上の人から言われなければ動きもしない。

「教えてくれないとできません」

「習っていないからできない」と、恥ずかしさもなく言ってくる。

何と不便。これからやることやその方法を「教えてくれないとできません」は、はっきり言えば、片輪である。この片輪な人に教えても殆どの人は習得できずに終わる。学び取るということをして来なかったから、学び取る力が付かず、教えても自分の物にできないのである。Intellectual Yet Idiotの出来上がりである。

学び取る力と学力とは違う。何故なら、現代教育の学力の解釈は、教科教育によって習得する能力の事を学力と言っているからだ。

この片輪な人たちを産んだのが、一方通行的に教えてきた教育制度である。

しかし、このような人たちでも、Mac computerを結構器用に扱えるから不思議である。しかし、良く考えてみると、ゲーム感覚でできるからで遊びの延長だからできるのだろう。

私が、Mac computer を最初に手にした時、親切に書かれているWindowsの説明書を見慣れた者にとって説明書の全く無いMac computerには戸惑どった。スイッチは何処にあるのだ?から始まったから大変だった。今では結構使い慣れてはいるが、実践して学んで身に付けてきた成果ではある。

現代人の多くは「言われないと分かりません」と、平気で云う。「この程度察しないのか」と、言いたくなる。知らないということに恥ずかしさは覚えないようだ。

教育とは、ラテン語のeducatioからきたと記憶している。このeducatioは、大きくするというeducereと引き出すというeducere二つに分かれる。または、動植物を飼育・栽培するということを意味していて、いつの間にか養い育てるということに変わってきたらしい。つまり、親が子供の成長が引き出されることを願い、育てることを意味するようになったとされている。

このEducationについては、もう一つの説がある。産業革命時代、起業家が、その仕事に従事する人たちが会社の意向にそって上手く効率よくいくように教えたことが「教育」と。だから、教育は一方通行なのかも知れない。

日本では、戦後GHQが推し進めてきた教育が、現代教育の基を成している。戦争で日本人の怖さを知ったGHQは、日本人に考えることをさせずに学問の中に、日本は侵略戦争をしたいけない国だと潜ませて教育をさせてきた。現在もそれが残っている。

この教育に、意見を差しはさむつもりは無かったが、現代の流れ作業的な教育には些かあきれ返り「一言」言いたくなった。

流れ作業的と言ったが、小学校1年生から中学校3年生まで文科省で決めた指針に沿って、その年代に応じてかどうか私には判断できないが一方的に教えられてきている。考えることをさせないから「馬鹿が」作られていく。

飲み水を容易に入手できる所には井戸は必要ない。また、井戸を掘る技術も存在しない。

周りに、四季の果物が手に入り、食べられる野の草のある地域に畑は存在しない。豊富に魚を捕獲できるところには、漁業組合もないし、誰に断らず自分たちの食べる分の魚を捕って食べても文句は言われない。これは過去によく出掛けて行った南洋諸島で経験したことである。そこでは、皆、あくせくと働かず、のんびりと生活をしている。

飲み水の無い所では、2,3㎞も行って水を探して運んでくる。大変な労働をしているが、「井戸を掘ろう」という発想を持っていない。学ぶことを止めた人々だ。

畑に野菜を作るにはどうするのか?と思案し、知らなければ学んで習得し、虫や天候と格闘していく。これなら、進歩性がある。しかし、井戸堀は、井戸屋さんに頼めば良い。野菜は農家で作って貰えば良いというのは、自ずから考えて学ぶことを拒否した人たちだ。

水の例えを現代の教育に当て嵌めて観てみると、知識や学問を、欲しいと言わなくても教えてくれる。これでは何かを学ばなくては、という気持ちは起こらない。

受けている側は「全て教えてくれるもの」と思っているから、自分から率先して学ぶということをしなくなる。訓練もしなくなる。

自分で学んでいく。学ぶ力を付けていく。それには苦労がいる。でも学ぶ癖を持った人は、誰も身近に教えてくれる人がいないからといって、学ぶことを止めはしない。

どうすべきか?あそこはこうしようと、工夫することになる。そして独自性のあるものが創りだされる。それがノウハウになり、知恵となって自分の脳に集積されていく。しかし、一方的に教わった場合、その時に必要のないものまで教えられる。だから、そのことを確かめる試験が終われば多くは忘れてしまう。また必要のない知識を得ても使うことは無いので、脳の片隅に追いやられ、それを後で取り出して使うということなどしなくなる。脳に、不良在庫が増えるだけだ。これでは全く意味がない。

教えないとできない。それも、細かく教えないと物にならない。このような人を使う側になると手間が掛かって「自分でやった方が速いし、ストレスが溜まらない」という人までいる。

学ぶという癖を持った人は、様々な事に挑戦し勝利を得て足跡を残していく。学生時代、どうしようもない馬鹿だとされていた人が、今では社長さん。とみに業績を伸ばしている。という例は沢山ある。学生時代優秀と言われた人が只の勤め人。社会の愚痴ばかり言っている。Intellectual Yet Idiotの人達だ。

おそらく社長さんは、かなり苦労をして様々な事を学び実践してきていることだろう。学ぶには学校に行って学ぶ。と思っている人にはできないことだ。

学び取る技術を身に付け、直接教わらずとも何気なく仕事をし、社会に貢献出来得る人になっていただきたいものである。そして私のMMSを広めていって欲しい。そうしたら、コロナ騒ぎの暗黒時代は端から存在しなかっただろう。

弟子たちには、そうあって欲しい。

2022年7月12日

眞々田昭司