釈尊は「生老病死」と言う四つの苦を、人間として生まれた以上避けられないものであると説いた。

生を得て一つのことをやり遂げたとしても、醜く老い、業病に苦しみながら死を迎える事だけは避けたいと、誰もが思うのではないだろうか。特に病は一生知らずに済ませたいものである。しかしそう都合良く問屋は卸てくれない。

「病気は自分自身がつくるもの」と私は思っている。だからそう人にも教えてきた。「病気になった。何で俺が」病気を侵略者のように思っている人が多い。いつの間にかいて苦しめられる。確かに風邪やインフルエンザなどはウイルスが侵略してきたと思えるが、でもそれは自分の身体の砦が崩れているのを見過ごし、それを修復していなかったので侵入されたにすぎない。鍵をしっかりと掛けていれば入られなかった。

常に自分の身体をコントロールして免疫力を高めておけば、そうたやすく風邪はひかない。またひいても軽く済む。

焼き肉が美味しいと三日に空けず腹一杯食べる食生活。ガンや脳梗塞になって当然だ。

また簡単で旨いからといって毎日ファーストフードを食べていたら、身体が壊れない方がおかしい。

常に腹一杯食べ、ろくに動かない。肥満が作られる。メタボにもなる。このような生活が病気をつくる。生活習慣病ともいう。全部自分がつくっていることなのだ。

「ではお前はどうなんだ」心配しないで欲しい。私も悟れない一人である。でもここ15、6年風邪もひかない。むしろ過去より健康であるし、10年前よりも肉体は若くなっている。健康管理が効をそうしている。

私も過去にはよく風邪をひいた。椎間板ヘルニアで15年も悩んだ。でもそのお陰で現在がある。少し言い訳がましく聞こえるかもしれないが、私は軽い病気にかかることを歓迎している。勉強になるからだ。とは云え重篤な病気はNOである。ましてや読者には勧めない。

病気ではなく不意の事故による怪我ということもある。不可抗力の場合は何ともし難い。

普段から出来るだけ病気にならないような生活を心がける。そして病気になったら早く治すこと。それがより良い人生を送る「コツ」ではないだろうか。

治す

病気になることは避けられない。だったら病気になったら早めに治すことだ。言葉で言ってしまえば至極簡単なことだが、これがなかなか上手くいかないのが現実だ。早期発見したからといって治るとは限らない。

病気になったら貴方はどうするのだろう。まず病院に行き種々の検査を受けて診断を得る。そして薬の処方箋をもらって、薬局にいく。これがごく一般的な病気を治す為の手続きみたいなものだ。

宇宙船に乗り込んだようなマシン。高額な検査だ。「本当に検査が必要なのか」それを問う人は少ない。保険が費用の大半を処理してくれるので、本人の負担感がないからだろうか。

病気になったら病院に行けば治してくれると、多くの人が病院に期待をしている。しかし現状ではその期待に応えてくれているとは思えない。現代の治療法に問題はないのか?ではその現代医学の治療法を探ってみよう。

いろいろな治療法

対症療法

姑息療法

攻撃的療法

治療法

について振れてみよう。最後の項の治療法とは私が望む療法であり、また治療とはこうあるべきと考えているものである。

対症療法

対症とは症状に対処する。あるいは対応するという意味がある。

熱があれば熱を冷まし、痛みがあれば、痛みを取る。(薬で感じなくさせる)

またある数値が規準値を超えている時、その数値を下げる為に行う一時的な療法である。対症療法は病気の根元を治す療法ではないので何年も続けられることが多い。

頭痛薬を毎日飲んでいる人がいる。生理痛の際痛み止めをその都度飲んでいる女性が多い。

高血圧有症者は、何十年も血圧降下剤を飲み続けている。血圧降下剤は一時的に数値を下げてはくれるが、高血圧症を治すものではない。不思議なことにほとんどの人がそれを承知で飲んでいる。

糖尿病のインシュリン療法も同じだ。何年打とうが治らない。「糖尿病は不治の病」だと平然と言い切る医師もいる。「薬を上手に使って快適に生きることだ」とも云っている。薬の副作用を無視しているのだろうか。薬を長く飲み続ければそのツケが必ずやってくる。種々の合併症や失明そして腎不全を引き起こす。件の医師は、糖尿病から腎不全になって透析を受けた場合、5年程度の余命しかないと断言している。「あなたの薬治療が腎不全を早めた」のではないのですね?

風邪をひいたら風邪薬を飲む。頭痛がしたら頭痛薬を飲む。これを至極当たり前のように人々は行っている。薬を飲んでも治る訳ではないので、効果が切れればまた飲むことになる。薬を飲み続けるとリスクを背負うことになる。「薬には副作用が付きものである」と嘯く医師もいる。リスクの最大のものは腎機能を低下させてしまうことだ。薬の毒を消すために腎臓がフル活動をしなくてはならないからだ。腎機能が落ちると代謝が著しく衰える。水筋肉にもなる。それが多くの病気を引き起こす引き金になる。まさに医原病がつくられる。対症療法というその場限りの療法は避けるべきと考えるが。

姑息療法

姑息療法と言うのがある。読者には耳慣れない療法だろう。この療法は、姑息な手段を用いた療法と思えばよい。

姑息とは、一時の間に合わせ、その場のがれという意味を持つ。 膝に水が溜まった。水を抜く。酷いのになると、腹水が溜まった腹部に穴を明け、カテーテルを通してバルブが着けられる。水が溜ったらそのバルブを開いて水を抜く。これが一流病院の療法だ。これも姑息療法だ。

水頭症という病気ある。頭部には4つの脳室がある。その脳室に脳が水に浮いたような状態で収納されている。その水を髄液という。髄液は常に作られ古いものは捨てられていく。その髄液が何かの都合で流れなくなり、脳室に溜まり膨張する。それは頭蓋骨までも膨張させる。その結果神経を圧迫し激痛を引き起こすという病気である。幼児、子供に多い。現代医学の療法では、手術をしてカテーテルを脳から膀胱に通して、溜まる髄液を流すというものである。しかし幼児や子供は成長するので、その成長に合わせて何回もカテーテルを交換しなければならないという。

この手術はどこの病院でも出来るというレベルではなく、一流の大学病院でしか出来ないという。進歩した現代医学の一面か?でもどう考えてもこの療法は姑息療法としか私にはとれない。

私は過去に二名ほどの水頭症の子供を治した経験を持っている。どのようにしたのか?そんなに難しいことではない。流れず溜まってしまった髄液を流れるようにしただけの話である。髄液を堰止めている部位がどこかにある。その堰を取れば髄液は流れる。大変な手術をする必要は全くない。

足が浮腫んでいる人が近頃多い。すると浮腫んで膨らまないように圧力靴下を履かされる。これも姑息療法だ。低下している腎機能を少し正常にし、固まっている脚の筋肉を解して動くようにしてやれば浮腫は解決する。時に浮腫は心筋症の症状として出てくる。念の為に心臓をチェックする必要はある。

アトピー性皮膚炎の治療に、荒れた肌をとにかくきれいにしようとステロイドが塗られる。これも薬が切れればまた元に戻るので、習慣性をつくる。その結果より重篤なアトピー性皮膚炎となってしまう。これを対症療法という人もいるが、私は姑息療法と思えるがいかがなものだろうか。姑息な手段を使った結果ひどいことになる。

膝が痛い。だからそれをサポートする。ベルトを巻く。これも姑息療法である。膝の間接や筋肉を治せばよいことである。簡単な話である。

姑息療法も「病気を治す」という意味を持たない。その場の間に合わせだ。

現代医学はこの二つの療法を最も得意とする。

攻撃的療法

これは私がつけた療法と思っていただいた方が良い。

体内、体外に出来物ができればそれを切除してしまえ。ガンなどはその例の代表的なものだ。悪い者は切って捨てろ。時代劇に出てきそうな台詞だ。(「切る」の字が違うかもしれないが。)ウイルスが侵入した、即殺してしまえ。この様な療法を攻撃的療法と云う。

ガンも自分の細胞である。切って捨てなくても方法がある。抗ガン剤治療の化学療法では、ガンをやっつけようと抗ガン剤を打つ。しかしそう上手くはいかない。ガンだけでなく全身の細胞にダメージを与える。それを繰り返せば死期を早める結果になる。

小さなポリープが出来ただけでも大騒ぎをし、「早く取ってしまえ」ということになる。どうしてポリープをつくるような身体になったのか?それが大事なことで、それを知れば次のポリープの発生を未然に防ぐことが出来るのではないのか。それをほとんど問わず、出来たものを取るというのは姑息な手段としか思えない。

他人や他国を攻撃するのではない。自国である自分自身を攻撃することだ。その自分をとことんやっつけてどうするのだ。

肝炎。昨年は肝炎訴訟と言うのがあり問題になった。その筆頭で活躍していた女史は衆議院に当選した。そのお陰で多くの人たちがC型肝炎という病気を知った。不治の病といえる病気で、狂った血清を打たれた為になってしまった。お気の毒である。

現代医学はこの病気の主原因をC型肝炎ウイルスであると主観的に捉え、このウイルスを殺してしまうことだけを考えている。そしてインターフェロンを打つ。だが良い成績は得られていない。

C型肝炎を治すには、全身の緊張した筋肉を緩め、固まった腸を柔らかくし、造血を正常にする。すれば免疫力が高まってくる。また肝臓を柔らかくして正常にしていくと、肝臓の環境がよくなりウイルスは住めなくなりいなくなる。私は過去にこのようにして改善させた実績を持っている。

スワット的に目標を攻撃する療法。私は攻撃的療法を受入れない。戦争反対と云いたい。

治療法

治療法とは、療を用いて治す方法という意味である。

その場限りのものでなく、病気の原因をさぐり、それを正し、病気になった身体を治していくという療法である。説明を重複すれば、単に病気を治すという考えではなく、病気になった身体を治すということである。

「頭が痛い」「熱が出た」。直ぐに薬を飲む。対症療法とも姑息療法ともいえる。女性の生理痛でも同じ事がいえる。毎月同じことを繰り返している。次にならない様に治すことが大事なのに。でも現代医療の現場からはその答えはもらえない。私に聞いてくれれば直ぐに治す方法を教えてあげられるのに。

過ちを二度も三度繰り返す。「馬鹿」と言われてもしょうがないだろう。人間は学習すべきである。

なぜ対症療法的な療法が確立されてしまったのだろう。それは結果のデータを優先する中途半端な科学のせいかもしれない。

原因があって結果がある。結果を重要視すれば、原因が薄れ、経過が解らなくなる。

何かが産まれる。時間を経てそれが変化していく。そしてそれは常に一定ではない。それが最終的に結果として現れる。これが原因と結果である。同じ原因であっても、経過が変われば当然結果も変わってくる。

ある部位の筋肉が固まる。時間的な経過を経て、ある人は糖尿病になり、またある人は腎不全になる。前立腺ガンにもなっていく。原因は一緒なのに経過で変わっていく。治療はまず原因を正常にし、経過によって変化してしまった部位を正常にしていく。至極簡単なことであると私は捉えている。

要は如何に原因を探り当てられるかである。出ている現象ばかりを観ていると、原因を掴むことができない。木を見て森を見ずになる。逆もいただけない。

現在、日本の国家予算の多くをつぶしている医療費は、対症療法や姑息療法、また攻撃的療法の成果がないからだ。

高い薬を何十年も飲み続ける療法、高額な手術料であってはならない。

正しい治療法を用いれば、高血圧も糖尿病も短期間で治す事ができる。血圧降下剤の薬を飲んでEDを心配する必要は全くない。また高血圧と脳卒中はほとんど関係ない。「脳梗塞になるよ」と脅されて血圧降下剤を飲み続ける愚を犯さないことだ。

治療法とは、根本を治すものでなくてはならない。私はその治療法を益々高めていこうと日々研鑽している。人間に優しい治療法を世に広めたい。人々が病気で苦しむ世界がないようにしたい。それが私のライフワークと思っている。