似たような座捕りの訓練のための技が合気道や合気柔術の世界にあります。
武田惣角から植芝盛平に伝えられているわけですから、同じような技があるのは当たり前ですが、
現在ではかなり違ったものになっています。
手の指を伸張させて手首を上に上げ、掴まれた手をロックして相手を浮かせてから、左右に投げるという技が合気柔術ですが、
捕まれた両手の指をやや伸張させ、前に突き出すように押しながら、
腰を浮かせてやや上方に膝立ちになるような姿勢で押しながら左右に倒すというのが合気道です。
この技は甲野氏の井桁崩しに似ています。
前者は関節をロックして自由を奪い投げるのに対して、後者は別々の力を加えて押し込むというものです。
合気柔術の合気上げは、肘を固めて体の自由を奪う技で、多くの技の基本の技になっています。
天地投げ、四方投げなどの技への展開も、この肘を固めてしまうという技がこなせなくては成り立ちません。
上級になれば、肘から肩まで固めることができるようになります。更なる展開もあるのでしょうが筆者は見たことがありません。
師から教えていただいた技もこの辺の域であったように思います。
関節を固めるには力を必要としませんが、近頃の修練者の技を見ていると、目一杯力を入れて行う技に変わってきています。
指導者たちに術理が十分理解できていないことが推測できます。
一方合気道の呼吸動作は、二方向の力の応用であると思っています。
私自身は短い期間の合気道経験でしたが、今にして術理を考察すれば私の推測はまず間違いのないところでしょう。
前に押す力と、やや上方に押す力の合成がこの技の特徴です。両手で単純に前に押す力と、
やや膝立ちになろうとする背筋の組み合わせです。
二方向のところで述べていますが、人間は単一方向の力には対応しやすいのですが、同時に直線的な力とそれと違った方向の力が加わった場合、受けてはひとつの力で対抗しようと思うので、対応ができなくなるのです。
いくつかの部位の筋肉を組み合わせたり、加えたりできる人には通用しない技になります。
合気道の技の展開もやはりこの呼吸動作が原点にあるようです。円を描いて投げようとすることも、相手の動きを誘い、その動きに自分のたとえば手首の動きなどを加えて二方向の動作を生み出しています。
合気道の天地投げなども合気柔術の動きとはまったく違った動きが見られます。
関節技に対して、二方向の力といったことがよく見て取れます。
合気道はよく実践に使えないといわれていますが、植芝盛平氏がつくられた当時の合気道はそんなことはないと私は思っています。
ただ現在の修練者の稽古の仕方では無理であると思います。
受け手は自ら投げられるようにして準備し、取り手が技を出そうとするときに、自ら倒れていきます。
取り手の技で倒れていません。こんな修行をいくらしても技を使える術者にはなれません。
投げられたくない人を投げることで技は進歩していきます。
こんな経験をもっています。ある合気道の大会の時に、棒と素手での演舞でしたが、有段者と無段の私が当たりました。
まず取り手の私が棒を持って打つと必ず当たってしまってしまいます。
それを手で受けられてもひざまずいてしまいます。私の棒の振り方は無拍子なので受けにくかったのでしょう。
「もっとゆっくり打ってきてください」という注文を受け、ゆっくり打ちとそれを取って投げようとしますが、私はびくともしません。
満場の会場の中で私たちのところだけがギクシャクしています。
先生が飛んできて「ちゃんとやって下さい」といわれたのですが、私にはちゃんとしようがありません。相手に
「合気道に偏見があるの」
と聞かれましたが、別に偏見があるわけではなく、自分が自ら転がるのもいやなのでただ立っていただけです。
取り手の受け手が逆になり私が棒を受けてそれを投げる側になりました。相手は向きになって打ち込んできましたが、木刀による見切り稽古を充分に行っていますので問題なく、棒を受け左右に投げ分けていました。また先生が飛んできて
「投げ技が違う、教えたとおりにやってください」ただ、教えられたとおりにやっても投げられることができません。
私たちの関係は、投げる人、投げられる人の関係ではなく、少し敵愾心を持った人の相手です。
打ってくる方向や角度によってそれに対して投げているので、当然毎回変わってくるのは当たり前でした。
この経験で私は合気道に対して急に醒めてしまいました。投げられる人がいないと投げられない世界では、実践には到底使えません。
当時私も若かったせいもありましたが、実践に使えないものは武術、武道とは違う世界で、観客に喜んでもらう演舞の世界で、私の学ぶものではないと思いました。
私が師匠に指導していた世界にはありませんでした。逆に「練習なのだから、もっと相手が技をかけ易いように、力を抜いてあげなさい」とよく注意されたものです。
誰もが投げられてくれるような人はいませんでした。そのような条件で指導されているので、初めての人と対しても当たり前の反応が返ってきます。技が通じるか、通じないかです。通じなければ修行するしかありません。
先生と弟子の関係が成立している多く存在します。弟子にしか通じない技を教えている人が多いようです。もっと真摯に武術を研鑽すべきです。
太極拳の世界でも、飛び屋と称する人がいるそうです。老子の技がかかり、いかにもその技で後ろに吹っ飛んでしまったようなことをするようです。それを見た観客は「あの老子はすごい」ということになり弟子が増えていくというようなことを聞いたことがあります。
とにかく馴れ合いでない武術を磨いていただきたいと思います。