「もっと集中して考えなさい」「集中すればできる」とか言われて育ってきました。皆さんもそうでしょう。
なにか事を成し遂げようとするときに集中しなくては駄目と教わって育ってきました。
教えるほうも何の疑問も持たずに子供や生徒にあるいは弟子にそう教えてきたはずです。

この集中することがいけないとといているのは世間広し、といえども私一人ではないかと思います
大方の人たちが集中すると力が増して実力が発揮できると考えていると思います。
確かに通常時より多少勝ると考えたほうが良いと思います。

聖徳太子は10人の話をいっぺんに聞いたと伝えられています。一人の話もろくに聞けないのに
10人の話なんかとても聞けるものではないと考えるのが普通の人々です。
またそれが出来る人は特殊能力を持つ人と考え自分と同列には置こうとしません。またそれでも恥になることはありません。

私は公共の場所や人の集まる場所で多くの人の会話を聞いて楽しんでいます。
レストランなどでの食事を楽しみながら4、5組の話を聞いています。ひどいときには日本語と英語が組み合わされたりします。
あいにく他のボキャブリーは理解不可能なので却下しますが、常時多くの人の話をいっぺんに聞くことに慣れています。

弟子や生徒が、私は聞いてないと思っていろいろな話をしていますが、私が時々その会話の中に入ると、
「先生聞いているんですか」と驚く人がいます。そうからといってそれらの話を盗み聞きしているわけでなく、
自然と聞いているだけで、こちらの意志が働かない限り話に加わることはしません。

見る目も、一つのことだけを見ているわけではありません。今こうしてパソコンのキーボードと画面を見ていても、
前の人の動きや行動が目に入っています。ただ危険性や今すぐ対応の必要がない限り、それに反応することはありません

こうしているのが私にとっては当たり前の世界で、分散神経といったらいいのでしょうか。
常にひとつのことに集中しません。集中したらいろいろな人の話を同時に聞くことも、また見ることも出来なくなります。

集中したらひとつのことしか出来ません。狭い考えならそれでいいでしょうが、
物事を大きく捉え全体を見て把握しようとするときには、集中することはマイナスです。

武術における目付けは、集中することだと考えがちですが、集中しては一人の対戦相手にしか対応できません。
集中すればするほど、筋肉は緊張します。特に目を緊張させると、首や肩、そして腕全体、また腹部も固まり動きが悪くなります。
多人数取りで目付け鋭く注視しても、その一人の瞬時の動きに、筋肉が緊張している身体ではついていけません。

3人が同時にかかってきた場合、それを見切るためには、柔らかくした筋肉で瞬時に動くことができなくてはいけません。
集中して固くなっていては、自分の身体が3人の動きについていけません。かといって「ボケッ」と見ているわけではなく、
自分の視野に入る世界を全部見ているということです。

ビデオカメラを想像してください。貴方はどう思っているかしれませんが、カメラでは捉えられる全体が移っています。
しかし貴方が同じ景色を見た場合、一箇所を集中して見ていて多分他を見ていません。
長い時間見ていれば集中した目線を動かして全体を見たと思っているでしょう。

集中していては、いろいろなことを見ることが出来ません。瞬時に過ぎ去っていく光景、出来事を見逃してしまいます。

常に全体を、見る、聞く、考えることが必要なのです。全体に見ていて、そのときに必要ならば対処すればいいし、
何もなければ反応しなければいいだけの話です。

私たちの年代はナガラ族の奔りです。ラジオのディスクジョッキーを聞きながら、彼女にラブレターを書き、そして勉強しました。
集中していては出来ません。私たちの世界では当たり前の出来事です。

私は常に枕元に数冊の本を置いて読んでいます。仕事も同時にいくつかをこなすのはいつものことです。
ひとつのことしか出来ない人よりいい仕事もしていると思っています。

武術を修行する上で水平移行していくことはとても大事なことです。先生、先輩から指導受けたことだからと、
疑いもせずに邁進することは危険です。自分の中で科学し分析することが、武術に精進していくには大切なことです。
かといって、先生や先輩から教わったことをろくに検証もせずに頭だけで考えて判断するのはもっとも駄目なことです。
教わったことを忠実に行い練習してみて、良いか悪いかを判断しなければいけません。

先生の形態模写を演じることです。他の人が見て、先生の動きと寸部変らなくなったとしても、
先生のそのときの心の動きまではわからないものです。そこまでしてみて、先人の教えの良否を確かめてみるべきです。 
近視眼的に物を見ず、広くみるクセをつけることをお勧めします。