そんなに知識を得てどうするの

 

知識の豊富な人、有知識者。物をよく知っている。解らないことを聞くと答えてくれる。そのような人を多くの人は頭が良いと評価する。

「頭の良い」と言うことはこの程度の事なのだろうか?

長年建築に携わってきて解っていることがある。寡黙に仕事に没頭している人、このような人の方が、仕事ができることだ。

しかし、並(な)べて仕事の出来る人は偏屈な人が多い。が、互いに気心が知れてくると味方にしてこれほど心強い人はいない。

昔から名人、達人におしゃべりな人は少ない。ましては自分が優れているとは誇らない。

それと対象的に「能弁で理屈の多い人」は使えない。理屈通りやらせてみても「何が悪い、これがおかしい」といってまともにいかない。

 

知識を身に付けるということは、誰かが考え実行してきたことを知ったに過ぎない。

知識を武器に例えて「知識は武器のようなものだ」と言った人がいた。正にその通りである。

武器の取り扱い説明書を見て覚えたとしても使いこなせなければ武器として成立たない。

安全装置を外して的に照準を合わせてトリガーを引けば的に当たるとしていても、まずはそう簡単に当たりはしないものだ。

武器を使いこなせなければ扱い慣れた人に瞬く間に殺されてしまう。武器とはそのようなものだ。

また、その武器はどのような場所、どんな機会に使ったら良いのかの応用力がなければ、ただ持っていても現代のこの世のなか何にも役に立たない。

コレクターなら違うかもしれないが、普通の人が武器を集めて飾ってみても何の役にも立たない。

お隣の中国の莫大な軍事を使った軍備のようなものだと思っている。いざ戦争になったら中国はどれだけ事ができるだろうかと思っている。であるから、軍備を増やす中国をみていてもあまり脅威には思ってはいない。

知識を武器と例えるなら、使えない、使いこなせない知識をいくら持っていたとしても何の役にもたたない。同じことではないか。

知識者ほど、持っている知識をひけらかすだけで、問題を解決する回答は返ってこない。知識は使って応用して役に立つ物であるが、新しい物は創りだせない。

 

日頃弟子たちには「知識を棚に上げてしまい込まないようにしなさい」と言っているが、それが成されていない。いくら丁寧に教えても、自分の棚の中に隠されてしまっては、教えても無意味である。使ってこそ価値があるのである。

また、こんな事に出会ったらどうしようと心配して知識を取り込もうとする人がいるが全く無意味である。大事なのはいつでも臨機応変に対応できる能力を身に付けることなのである。

こんな人は、道場で教える事がいつも新しい事を教えて貰っていると思っている。わたしにだってそうそうネタがあるわけではない。違う角度から以前教えた事を教えているに過ぎないのだが、以前の知識を棚に上げてしまっている人たちだからこれに気づかない。この人たちは知識のコレクターなのだろうが、コレクターならその知識の価値を知っていなければコレクターとしての資格もない。

趣味の物なら、作者は誰で、どの位の価値があると認識しているだろうが、知識のコレクターはそれが解っていない。

わたしの格言に

「知識を使いこなす知恵と知能が無ければいけない」と言うのがある。また

「知識は捨てろ。想像力が育たない」とも言っている。

 

「先生教えてください」と言ってくる。道なら知っていたら簡単に教えてあげられるが、施術などはそうはいかない。患者さんによってまるっきり違うからだ。

武器でも、操作のしかたは覚えてもそれでは役に立たない。何度も何度も繰り返し鍛錬して自分の物にしていく。その鍛錬が一生続く時もある。

「教えてください」と言われても言葉で、手技でそう簡単に教えられるものではない。

「君は何十回繰り返したの。何年やってみたの」と言いたい。昔のことわざに「王道に近道なし」と言うのがある。わたしはこれを忘れないで今もコツコツと創作をし、鍛錬を怠らないでいる。自分のスキルは日々アップしている

弟子たちに言いたいことがある。日々、「気」の鍛錬はしているのかと。

令和3年6月18日