飽きれた名づけ親
病名。
気管支拡張症・頸湾症候群・過敏性症候群・脊柱管狭窄症・アトピー性皮膚炎・アレルギー性鼻炎・緑内障・甲状腺機能低下症・逆流性食道炎……。
症状。
頭痛・耳鳴り・咳。
治療。
主に投薬。薬の名前も、数も多い。
病名は10種類以上。治療のための薬も10種類以上。
このような診察と治療を受けていた女性が、私のもとに来られた。
最初に私のクリニックに現れたときの姿は、真っ黒な顔に白いマスク。そして、とぼとぼと歩いてこられた。誰が見ても、病人であることは一目瞭然だった。
最初の面談で、女性が持参された小さなメモを見せていただいた。カレンダーの裏側に、病名や症状、その他さまざまなことが、びっしりと書き込まれていた。
私が用意した診察用の書類には、とても書ききれない。
「話を聞くだけでいいよ。早速、施術しましょう」
そう促して、書くのをやめてもらった。
施術
まず、硬くなっている脚の筋肉をほぐしていく。
30分もすると、全身に力が入っていた身体が緩んでくる。
その日は、ほかに腹部・肩・首の硬直を取って施術を終えた。
すると、すでに顔色に変化が現れ、活気が出てきた。とぼとぼと歩いていた姿はなくなり、しっかりと歩いている。強張っていた顔にも笑みが浮かんでいた。
その後も施術を続けていくと、身体の状態はさらに改善していった。頭痛・耳鳴り・咳などの症状もなくなった。そして、病院で告げられていた病気についても、すべて改善し、治癒したといえる状態に至った。
私は、この女性の変化を目の当たりにして、改めて考えた。
いったい、これまでの診察は何だったのだろうか。
病名を付けるのは、そんなに難しいことなのか
現代医療は、病気に名前を付けることに長けている。
検査をし、症状を聞き、診断基準に照らし合わせ、病名を付ける。そして、その病名に応じて薬を処方する。
もちろん、病名を付けることが必要な場合はある。正確な診断によって救われる命もある。私は、そのことまで否定するつもりはない。
しかし、患者さんは病名を聞くためだけに病院へ行くのではない。苦しみを取り除き、元気になり、再び安心して生活できるようになることを願って病院へ行くのである。
ところが、この女性はどうだったか。
病院へ行くたびに、病名を告げられる。いくつもの病名を知らされるうちに、生きる希望さえ失いかけていたという。
患者さんにとって、病名は単なる医学用語ではない。
その言葉を、患者さんは自分の未来と結び付けて受け止める。治らないのではないか。これからどうなるのだろうか。そんな不安が膨らんでいく。
病院へ行くたびに、まるで悪魔の言葉を聞かされるかのように意気消沈していく。
病気で苦しんでいる人に、さらに希望を失わせるような言葉を投げかけて、それで医療の役割を果たしたといえるのだろうか。
私は、そこに大きな疑問を感じる。
「本態性」という言葉
医学には「本態性」という言葉がある。
原因や発生の仕組みが十分には明らかになっていない病気などに用いられる言葉である。
もちろん、医学がすべての病気の原因を解明できていないことを責めるつもりはない。人間の身体は複雑であり、分からないことが残されているのも事実だろう。
しかし、原因が分からないのであれば、分からないと正直に言えばよい。
分からないことを、分かったかのように扱う必要はない。
そして、病名を付けたことで仕事が終わったかのようになってしまうのであれば、私は言いたい。
病名を付けることが目的ではない。患者さんを救うことこそ、医療の目的ではないのか。
私は、病名を次々と付けることに満足する医療のあり方に、強い疑問を抱いている。
「治らない」と「私には治せない」は違う
私が、患者さんに伝えたい言葉がある。
「時間は多少かかりますが、治りますよ」
もちろん、誰に対しても安易に約束できる言葉ではない。だが、私自身の経験から、身体にはまだ改善する可能性があると考えている。
この女性にとって、その言葉は大きな救いになったようだった。
病院へ行くたびに病名を告げられ、希望を失いかけていた人が、初めて前を向くことができた。そして、実際に身体の状態が変化し、症状がなくなっていったのである。
ここで、私は医療に携わる人たちに問いかけたい。
「治らない」とは、どういう意味なのだろうか。
あらゆる可能性を検討しても、現時点では治療法が確立していないという意味なのか。それとも、自分の知識や技術では治せないという意味なのか。
この二つは、同じではない。
「治らない」と「私には治せない」は、はっきりと区別してほしい。
自分には治せない病気を、誰にも治せない病気であるかのように患者さんに伝えてはいないだろうか。
自分の知識や技術の限界を、医療そのものの限界と取り違えてはいないだろうか。
私は、そう問いただしたい。
医師にも、得意な分野と不得意な分野があるはずだ。分からないことがあるのも当然だろう。だからこそ、自分には分からない、自分には治せないと認めることも、医療に携わる人の誠実さではないのか。
患者さんの希望を奪うような言葉を口にする前に、ほかにできることはないのか、考えてほしい。
名づけ親に言いたいこと
病気に名前を付ける。
また別の症状があれば、別の病名を付ける。
そして、薬が増えていく。
それでも患者さんの苦しみがなくならないのであれば、いったい何のための診断なのだろうか。
病名を増やすことが、患者さんを元気にすることにつながっていないのであれば、その診療のあり方を見直す必要があるのではないか。
私は、病名を付けることそのものを否定しているのではない。
病名を付けることにとらわれ、患者さん自身を見ることを忘れてしまう。そのような医療のあり方に、腹を立てているのである。
患者さんが求めているのは、病名の一覧表ではない。
苦しみから解放されること。希望を持って生きられること。そして、できることなら元の元気な身体を取り戻すことだ。
病名を告げるのであれば、その言葉が患者さんにどのように響くのかも考えてほしい。
治せないのであれば、治せないと正直に言えばよい。
しかし、自分に治せないからといって、患者さんの希望まで奪わないでほしい。
私は、そう言いたい。
病名を付けることはできても、患者さんを救うことができない。
それなのに、次々と病名を付けていく。
そんな姿を見ると、私はどうしても思ってしまう。
いったい、誰のための医療なのだろうか。
そして、病名を付けることに長けた名づけ親たちに、もう一度問いかけたい。
病気に名前を付ける前に、患者さんの身体を見てほしい。
病名を告げる前に、その人の心を見てほしい。
患者さんが求めているのは、病名ではない。
希望なのである。
最後にもう一度言います。
「治らない」と「私には治せない」は違う。
2026/10/20
眞々田昭司







